Komakuro

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議論にルールは必要ない

議論というものについて、何かと形式にこだわる人たちがいます。
たとえば、よく言われる主張として、「議論の最中、誰かが発言している場合、それをさえぎってはいけない」という類のものがあります。
本当にそうでしょうか?
たとえば、その発言をしている人が、発言の始めの方で、なにか簡単な誤解にもとづいた(つまり論点にならないような、誰もが間違いと認める)間違った前提をしいて、その前提の上で長々としゃべっている、というような状況があったとします。
このような状況なら、発言をさえぎって誤解を指摘することは、有益な議論をするために有効だと思われます。
こういうことを言うと、形式にこだわる人からは、次のような反論が出るかもしれません。
それができないのは、確かに「発言をさえぎらないルール」の一つのデメリットかもしれない。
しかし、発言をさえぎることを無制限に認めてしまえば、<b>自分と対立する意見を全く言わせない</b>というような行為がまかり通ってしまう。
そのような行為をさせないというメリットの方がはるかに大きい。
そうなんですよね。
議論の形式にこだわる人たちがする主張というのは、ここでいう「自分と対立する意見を全く言わせないというような行為をする人」のような、著しく議論をする能力が低い人がいることを想定し、その人たちへの対策として唱えられている場合が多いのです。
しかし、筆者はこういった意見にはこう反論します。
そんなやつはつまみだせ。
議論をする能力が低い人たちの存在は、有益な議論をすることにとって大きなマイナスです。
そういう人たちのために議論のあり方を変えねばならないくらいなら、初めからそういう人たちを議論に参加させなければいいだけの話です。
こういうことを言うと、おそらく次のような反論が返ってくるでしょう。
それでは、その人たちの意見を抹殺することになってしまう。
意見を言う機会は公平に与えられるべきだ。
この種の意見は、「議論」というものを根本的に勘違いしています。
そもそも「議論」というものは何を目的に行うのでしょうか。
例えば学者同士が専門分野に関する議論をしているのであれば、学術的な真実を見出すことでしょう。
あるいは企業における企画会議のようなものであれば、どんな企画がその企業にとって利益になるかを見出すことでしょう。
つまり議論というものは、みんなで知恵を出し合うことで、なにかしらの正しい答えを見つけることが目的なのです。
したがって、参加者が議論の場において何かを発言するというのは、その目的にとっての手段でしかありません。
誰かがその議論の場で発言することが、正しい答えを見つけ出すという目的にとってマイナスなのであれば、その人に発言をさせるべきではありません。
ここまで読んでも、まだ違和感があるという読者は少なからずいるかと思います。
そういう人は、おそらく、上記の意味での「議論」というものと、政治の世界などにおける「折衝」というものを混同しているのではないでしょうか。
たとえば、国会議員に議論をする能力が低い人がいたとして、その人を国会からつまみだしていいかというと、もちろんそんなことはありません。
政治の世界などで議論とよばれるもの(つまり「折衝」)は、最終的に「正しい答え」が出るという性質のものではなく、参加している人の主張をなんとか折り合わせて、妥協点を見つけ出すということが目的ですので、上記の意味での「議論」とは根本的に異なるものです。
この場合は参加者の意見というものは、目的にとって必須のものですので、もちろん意見の抹殺をすることは許されません。
つまり、「折衝」の場合は、議論をする能力が低い人も参加させなければならないので、その対策として、色々なルールを敷くことが確かに必要になるでしょう。
おそらく、世の中で言われる議論のルールとよばれるものの多くは、ここから発生してきたものなのではないでしょうか。
しかし、それはあくまでも「折衝」において必要なものであって、さきほど述べたように上記の意味での「議論」には必要ありません。
なお、ここで便宜上「折衝」とよんだものも、世の中では多くの場合「議論」と呼ばれます。
しかし、名前がどうであろうと、この2種類の「話し合い」は、目的が全く違う別物だ、ということに変わりはありません。
一括りにして扱わないようにするべきでしょう。